ART WORK
BOOK/Self Published


あそこで死んだのは私達ではありません
愛の塊だ。 Ⅱ

2025



私は未だに、写真に収めるべき被写体を見つけられずにいる。

けれども、写真は狂ったように増え続ける。私たちはいつか、この世界で死を迎える。そして、私たち一人ひとりの存在が消え去るとき、その写真に宿る記憶もまた、少しずつ消えていき、やがてこの世界から跡形もなくなる。
私は信じている。あそこで死んだのは私たちではない。死ぬのは、愛に関わるもの、愛そのものなのだ。

カメラは常に世界を切り取ると同時に、それを排除し、取捨選択を繰り返している。見る者は、切り取られた部分に集中し、排除された部分を暗黙のうちに忘れていく。

本作における断片的な写真は、私がSNSや学内で集めた不要な写真やミスプリントなどを、さまざまな人々から譲り受けたものである。それらはかつて、誰かの記憶の一部であり、意味を持っていたはずだ。しかし、何らかの理由で不要とされ、捨てられる運命にあった。私は、それらを裁断する。すると、そこにあったはずの被写体は曖昧になり、断片となり、あるいは姿を消し、代わりに、その周縁にあったものが浮かび上がる。
どうか、その塊をそっと手に取ってほしい。自由に置き換え、並べ替えてほしい。
今、あなたの掌にあるその塊は、時間を超え、誰かとつながる愛なのだから。









ゴロゴロ(goro goro)Ⅲ 
2024

石」は常に人間と共にある。
私は石を見るたびに、それがそのような形になるまでにかかった、何万年、何億年という時間の生成過程を想像する。
石は常に生きており、その物体は時間と空間を超えて、森羅万象を宿している。
石は、私にとって不思議な存在である。

私が石を拾い、スタジオに持ち込み、そして撮影するという行為によって、石本来の性質や物質性は次第に崩れ始める。それはすでに自然から切り離され、人間の側に置かれた存在となる。道具なのか、ものなのか――言葉では定義し難い存在になる。

写真という行為もまた、物から用途を奪う。写真があるからこそ、その中にある中性的な「もの」が成立する。さらに、枠の外に石を配置することで、内部と表面の視覚構造のバランスを意図的に崩すことを試みている。






ゴロゴロ(goro goro)Ⅱ
2024-2023



ある日、私は川沿いで石を拾いたくなった。しかし、友人は「石を拾ったら、宇宙のバランスが崩れる」と言った。それを聞いて怖くなった私は、結局その場で石を拾わなかった。今思うと、私はなぜその石を拾いたいと思ったのだろう。あの石の何に惹かれたのかを考えながら、私はまた石を探し始めた。

石は、まるで永遠に存在しているかのようだ。もちろん厳密には「永遠」ではないが、石は時代を越えて存在し、さまざまな人の手を渡りながら、人の想像力に触れてきた。私が石を拾い、写真に撮ることで、その石が「存在した」という意識を呼び起こすだけでなく、
石がさまざまな事物と出会うことで、新たな物質としての意味や価値が立ち上がる。

石を拾うことと、写真を撮ること。その二つの行為には、どこか似たものがある。どちらも、「選ばれる」ということではないだろうか。それを掴み取る、その一瞬の出来事によって、そこに含まれていた時間と空間が結びつき、新たな出会いが生まれるのだ。

私はカメラを通して、それらと一体化した。






ゴロゴロ(goro goro)Ⅱ
2024-2023







AKA

2024・パフォーマンス

「赤」――それは、非常に視覚的にイメージしやすい言葉だと思う。
しかし実際には、「赤」という言葉を聞いたり、文字を見たりするだけで、頭の中では“赤活動”とも呼べるような反応が起こる。“赤活動”とは、現実に赤という色や、赤い形のものを目にしなくても、同様の感覚的反応が引き起こされるという現象である。たとえば、「赤を描いてください」と言われたときに脳の視覚野を調べれば、その反応が明らかになるだろう。

赤という言葉におけるシニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)――その二面性において、意図的に混乱を引き起こすよう試みた。
私の動きそのものが、認識の混乱を誘発することを目指したのである。








花弁のなみだ、きみは見たことがありますか?

2023


言葉と写真の関係に惹かれ、私は詩から写真へ、写真から言葉へと行き来してきた。主観的な表現に客観性を加えるため、辞書という媒体をそのあいだに挟んだ。辞書も写真も、ミクロな視点から新たな世界を立ち上げ、記憶や感情を蘇らせる力を持っている。一見客観的に見える辞書も、見る人によっては主観を映す鏡となる。私は仮名のかたちから日本語を覚えた。意味はいつも少しズレていたが、そのズレが詩になることに気づいた。

花を撮るとき、私は感情を映し出す。スキャナーはそれを無感情な像に変える。けれど、無感情の中にも、誰かの感情が生まれるかもしれない。写真と詩、辞書と視線。私はその曖昧な境界を、そっとなぞりつづけている。








『』


130×130mm
糸綴じ
2025

本書は、不要になった写真やプリントミス、氾濫する日常のイメージ、そして使い残された紙の断片を回収し、コラージュと筆致によって再構成した作品です。
それにより、写真が本来持っていた指標性は次第に薄れ、曖昧なまなざしと記憶の断片が浮かび上がってきます。
やがて写真は、静かに、しかし確かに、繁殖し続けていきます。








「十三篇の絶望の詩と一曲の恋文」


140×180mm
折り畳みカバー
2025年


パブロ・ネルーダの詩集『二〇の愛の詩と一つの絶望の歌』。そこには、世界のすべてが、彼の心象として語られている。私はその詩集に深く魅了され、『十三篇の絶望の詩と一曲の恋文』という名を、自らの詩につけた。

本書は、十三篇の絶望の詩と、写真の断片が絡み合って編まれた、ひとつの塊である。
言葉は、時に私にとって無形の武器となる。けれどそれは、断片を忘却の淵へと押し流す時間に抗う行為ではないだろうか。
――写真も、そうだ。









『あそこで死んだのは私達ではありません、
愛の塊だ』



サイズ可変
段ボール綴じ
2024



この世界で、私たちは最終的に死ぬけれど、写真は狂ったように増えていく。しかし、私たち個々の存在が消え去るとともに、その写真にまつわる記憶も消えてしまう。
私は信じる、あそこで死ぬのは私たちではありません、死ぬのは、愛に関するもの、愛の塊だ。

本書は、不要になった写真やプリントミスの写真、そして世の中で増え続けるイメージを回収し、それらを断裁機で裁断した後、ランダムに集めて構成した写真集です。また文字部分には、使われなくなった紙の辞書から切り取った言葉を用い、新たな意味を付け加えました。







『ゴロゴロ』


100×70mm
ハードカバー、折り畳み
2024




ある日、私は川沿いで石を拾いたくなった。しかし、友人は“石を拾ったら、宇宙のバランスが崩れる”と言う。それを聞いて怖くなった私は、結局、あの場で石を拾わなかった。いま思うと、私はなぜその石を拾いたいと思ったのか。あの石の何処に惹かれたのか考えながら、私は石を探しはじめた。

本書は、実際の石ころと同じサイズに設定されており、開くと紙そのものがゴロゴロと転がるように展開していきます。
想像してみてください。百年後、千年後の石は、いま私の手の中にあるこの石の姿を引き継いでいるのでしょうか。







写真集
『花弁の涙、きみは見たことがありますか?』



125×220mm
ハードカバー、糸綴じ
2024


花の色彩や揺らぎの大きさには、自分の感情を代わりに叫んでくれるような美しさがあり、私は最初に花を被写体として撮り始めました。けれど、自分の主観にこだわらず、スキャナーによる画像の生成も取り入れてみました。スキャナーで現像された画像は、私には無意味で無感情なものにしか見えませんでした。しかし、それらは見る者によって意味づけられたり、恍惚やトランスのような状態を引き起こしたりもするのです。写真の中にある主観と客観は、まるで二重言語のように存在し、言葉と写真との曖昧な関係性の境界線を探る試みでもあります。

本書は、花を被写体とし、横にずれた糸綴じによって空間を作り出しています。ページをめくるたびに、花が重なり合っていきます。――そして、花弁が涙を落とすような瞬間を、あなたは見たことがありますか?







写真集
『花弁の涙、きみは見たことがありますか?』


125×220mm
ソフトカバー、蛇腹
2023





    
詩集
『僕らが愛する森は脊椎から這い上がって来た』


155×210mm
蛇腹
2024


闇夜の中で、心臓が歌う。
結局、火山は爆発したのかどうか、
私にはわからない。

もう私の心には、君が走り去った痕跡が残っている。
愛されないと決めたはずの人間なのに、
それを、すべて、素早く書き留めた。

君への愛を隠さないと誓った。
より広い愛を、一生をかけて歌うために。

58曲の歌、77枚の写真。
火山と暗い海、森と月、肌と植物、君と私。

君は火山だと、私はずっと前に言った。
君はただ、一度きりの爆発を待っている。
私はもう、その世界から散って行きたい。
君はどうせ、わからない。






詩集
『僕らが愛する森は脊椎から這い上がって来た』


155×210mm
蛇腹
2024

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